「教わることの落とし穴」
「教わることの落とし穴」というDVDを購入した。
元々、興味を持っていた人であり、本を読んだこともある。
この教わることの落とし穴とは、まさにこのブログの主旨と一致するところだろう。
そう思って見始めたのだが、冒頭から私の書いているようなことが否定されてしまった。
動作を言葉によって頭で理解しようというのは、よろしくないということだった。
見て学びとれ。
真似るということで、自然に身に付くことが大切なのだと言う。
理解して教わるというのは、短時間である程度のところまで身には付くが、
その先にはなかなか進まないものだと言う。
そこで、一旦学んだことを捨て、
自分自身の感覚で新たに作り直すことが必要なようだ。
人の感覚や、感じ方はそれぞれ違うのだと、最近思うようになってきた。
時には、指導者が言っていることと、まるっきり逆の感じ方をするときもある。
言葉とは、そういうものなのだということに、最近気がついた。
たとえば、「開く」という言葉のイメージ。
これ一つをとっても、感じ方はそれぞれ違う。
力が抜けていると感じる人もいれば、力を入れると感じる人もいる。
つまり、「どこが」という主語が無いことが原因だろう。
個々の部分が連動する総合的な動作というものに、
主語が存在しないのは、ある意味当然のことなのかもしれない。
発声において「開く」とは、goodを意味する言葉となる。
だが、なぜそれを「開く」と呼ぶのかは、明確ではない。
私が今感じている「開く」の定義とは、「声帯が適度に開く」である。
閉じ過ぎては息が流れない。
開き過ぎては声にならない。
適切な状態でキープされているのがgoodの状態。
開いてもいるし、閉じてもいる。
そして、それは音量、音高、母音の変化によっても常に変化し続ける。
それでも、常に適切にキープされた状態とは、
一定であるとも言えるし、可変的であるとも言える。
適切にキープされた状態というものを、どこでモニタするのか?
今、実践しているのが、耳であり、気道内の圧力であり、身体を支える筋肉である。
耳一つにとっても、音色、ピッチなど上げればきりがないし、
内圧も、鼻腔や口腔、咽頭腔と意識を分けることも可能だが、
それをやっていては追いつかない。
身体の支えも同様だ。
細分化してもきりがない。
結局、最後はこの三つにまとめるしかないと思う。
・声は美しいか。
・内圧は張っているか。
・筋肉は緩んでいるか。