「良い声」はセンス

ここで書いている事とは、思い込みというものの排除なのかもしれない。

それほど発声には、難しい、一朝一夕にはできない特別な技術という刷り込みがあるように思う。

その刷り込みこそが、発声の上達を妨げているのではないかと思う。

人間が言葉を獲得する以前の原始の時代では、誰もが等しく、

今で言う素晴らしい発声能力というものを備えていたと聞く。

確かにその頃に比べると、現代の発声筋肉は退化しているかもしれない。

でも、そのプロセスについては脳の中にしっかり残っていると思う。

その埋もれたプロセスを思い出す作業が発声練習ではないか。

だから、新たに何かを学ぶという姿勢には間違いがあると思う。

発声の「やり方」に重要性を置いて拘るのではなく、

もっと柔軟に、自由に、どんなやり方をしても、

出来る時は出来ると考えることが必要ではないだろうか。

 

こうしてはいけない、このやり方では間違っていると思うことが不可能を生む。

喉が締めたければ、思いっきり締めてみればいい。

ただ、その締めた状態でも、「良い声を出す」ということだけは、

忘れてはいけないだろう。

そうすれば、締めたはずの喉も、良い声に近づけようとする動作のおかげで、

自然に開いてくるはずだ。それを喉が開いたと感じるか、

ただ良い声が出たと感じるかは、人それぞれである。

決して、精神論で発声を極めろと言っているわけではない。

むしろ脱精神論なのかもしれない。

 

ここで重要な位置を占めるようになった、「良い声」とは。

おそらく、「良い声」というものを知らないから、発声が上達しないのだと考えてみる。

それは、良い声といものを大雑把に捉えているということではないか。

もっと緻密な、「音の質」というものを意識する必要があるのではないか。

例えば、「音色」という言葉がある。

明るいだ、暗いだ、軽やかだ、重いだというような目に見えるような(本当は聴こえるような)感覚。

これは、誰でも、素人でもすぐに聴き当てられるものだろう。

ならば、「音色」ではなく、「音質」という言葉を使ってみる。

音色よりも、もっと定性的な耳。

それを言葉を使って表現することは極めて難しいが、

ある種のセンスと呼んでもいいだろう。

「センスがいい」と言われる、あのセンスである。

声が明るい暗いではなく、明るくても良い声であり、暗くても良い声であるところの、

「良い」を聴き分ける力であろう。