我慢する筋肉

高音で声が出なくなる時、「もっと喉を楽にして」と言われる。

そんな時に思うのが、「楽に高音がでるわけがない」である。

高音を出すには、「呼気の速度を上げ、喉頭を下げて、

声帯をしっかりと引っ張らなければならない」と思っているからだ。

だから、高音が苦しいのは、まだ筋肉の使い方が足りない、

筋力不足だからもっと鍛えなければと考えてしまう。

それは、言われていることと矛盾してしまう。

 

もしかしたら、高音を出すのに必要な筋肉とは、

自分で思っているほど

高音で声が出なくなる時、「もっと喉を楽にして」と言われる。

そんな時に思うのが、「楽に高音がでるわけがない」である。

高音を出すには、「呼気の速度を上げ、喉頭を下げて、

声帯をしっかりと引っ張らなければならない」と思っているからだ。

だから、高音が苦しいのは、まだ筋肉の使い方が足りない、

筋力不足だからもっと鍛えなければと考えてしまう。

それは、言われていることと矛盾してしまう。

 

もしかしたら、高音を出すのに必要な筋肉とは、

自分で思っているほど実感できるものではないのかもしれない。

音が上がるにつれて、徐々に力を入れていこうと努力することが、

間違っているのかもしれない。

これまでは、音階を上げるときに補助イメージとして、

手の動きを加えてやっていた。

確かに、その効果はあったと思う。

しかし、それでは限界点にくればそれ以上のことはできない。

 

今度は、そのような補助イメージを一切持たずにやってみる。

とにかく、音が上がろうとも何も変えない、どこも動かさない。

筋肉とかの動きも考えず、最初の喉の状態を最後までそのまま保つことだけに専念してみる。

結果、苦しくなるとどこか必ず動いてしまう。

逃げてしまうのだろう。

そこを動かずにキープし続ける筋肉こそ、求められいる筋肉ではないだろうか。

我慢する筋肉。

だから、その筋肉に力を入れている実感は無い。

それが、「もっと楽にして」の意味だと思う。

力を入れれば、最後の一押しにはなる。

でもそれでおしまい。それ以上にはいかない。

 

力を抜いてとか、緩めてという表現は、

力が入ってしまっている状態だから言われるのだが、

もうその時には手遅れだと思う。

その状態からは力を抜くことは難しい。

実感できるものではないのかもしれない。

音が上がるにつれて、徐々に力を入れていこうと努力することが、

間違っているのかもしれない。

これまでは、音階を上げるときに補助イメージとして、

手の動きを加えてやっていた。

確かに、その効果はあったと思う。

しかし、それでは限界点にくればそれ以上のことはできない。

 

今度は、そのような補助イメージを一切持たずにやってみる。

とにかく、音が上がろうとも何も変えない、どこも動かさない。

筋肉とかの動きも考えず、最初の喉の状態を最後までそのまま保つことだけに専念してみる。

結果、苦しくなるとどこか必ず動いてしまう。

逃げてしまうのだろう。

そこを動かずにキープし続ける筋肉こそ、求められいる筋肉ではないだろうか。

我慢する筋肉。

だから、その筋肉に力を入れている実感は無い。

それが、「もっと楽にして」の意味だと思う。

力を入れれば、最後の一押しにはなる。

でもそれでおしまい。それ以上にはいかない。

 

力を抜いてとか、緩めてという表現は、

力が入ってしまっている状態だから言われるのだが、

もうその時には手遅れだと思う。

その状態からは力を抜くことは難しい。