風のように 水のように
前記事で書いたように、
「直角に折れ曲がった菅」で、喉をイメージすることが身についてきた。
たとえば、自動車の運転中に道路を直角に曲がるとき、
コーナーの外側に膨れてしまうことがあるだろう。
そんなように、声というものが喉の気道を曲がる時、
気道内の外縁に沿って出ていくようにイメージできる。
それは、まるで声が軟口蓋に貼り付いているように感じられる。
そして、声が舌根(舌の奥という意味の)からの離隔が確保されている感じがする。
つまり、喉が開いた感じがする。
声は口腔内の天井に集まっているように感じ、
そのまま鼻の方に抜けていくように感じることができる。
これは、指導者が言うことと見事に一致する。
しかし、そのような感覚は、実際に起きている現象そのものではないと思う。
それでもそういう感じがするのは、多くの人に何かが共通しているからだろう。
それは、私たちが声というものを、
流体として捉えようとする傾向があるからではないかと思う。
流れを感じ、時間差、順序を感じ、方向性をあるものと捉えたくなる。
でも、実際に音という性質は、それとはまったく逆である波の現象である。
流体のように移動はせず、瞬時に360°方向に放射される。
それなのに、どうして流体のように感じてしまうのだろうか?
冷静に考えてみると、最初に書いたような声が集まるとか、
外縁に沿って流れるということは、起きるはずがないことだろう。
ありえるのは、声帯という1点から放射される空気の振動が、
気道内を複雑に反射しながら、音が打ち消し合ったり、
増幅したりするという、まさに波の性質そのものだ。
その性質を利用して、「声」というコントロールされた音ができ上る。
おそらく、この「コントロール」の目指しているところが、
「流体」にあるのではないだろうか。
風が吹き抜けるような声を、水の流れのような声を、
わたしたちは目指そうとしている。
その目標に達成した人だけが、声は流体のように感じられるのではないかと思う。