自転車に乗る練習は?
前回の記事では、発声練習で身振り手振りを加える補助イメージについて書いた。
問題とするのはそのあと。
なぜそれが定着しないのか?
たとえば、自転車に乗る練習を始めた時、最初は補助輪を付けた。
それでコツをつかんでから補助輪を外すのだが、
恐怖感さえ克服できれば、あとは補助輪は二度と使うことはないだろう。
恐怖感と言えば、お風呂場で声を出すと調子が良いというのも関係するだろう。
お風呂場という個室状況が、心をリラックスさせてくれる。
そして、湯気が喉を守ってくれるという心理的効果が、
発声に良いと書かれたものがあった。
私たちの頭の中には、「大声を出す=恐怖」という図式でもあるのだろうか。
ちょっと実験をしてみた。
前回記事に書いた「おまじない」を、全く無意味な動作に置き換えてやってみた。
プラシーボだ。
結果は同じだった。
やはり「おまじない」は、ただのおまじないでしかなかったのかもしれない。
それが分かれば、この後にやることは決まってくる。
補助イメージを使わない練習だ。
補助輪を長く使っている子ほど、自転車に乗れるようになるのが遅くなるという。
それを補助イメージを使って誤魔化すのではなく。
「大声を出す=恐怖」から、「大声を出す=快感」に心を切り替えることだ。
そのためには、まず自分が「大声を出す=恐怖」を持っていることを自覚することだろう。
自転車練習でも同じ。
子どもは、出来ない、難しいことだから出来ないと言うだろう。
すると大人は、怖がっているからできないんだと教える。
子どもはそれを自覚して、それを乗り越えようと挑戦し始める。
しかし、身体が強ばってしまい、失敗を繰り返す。
その強ばりを解いてくれるのは、偶然、成功したときの喜びだろう。
子どもに自転車乗りを教えるとき、ハンドルの微調整と重心のとり方を教えるだろうか?
自転車が直進して進む原理を教えるだろうか。
目は真っ直ぐ前を向いて、肩の力を抜きなんてことを教える必要があるだろうか。
そんなことは、自転車に乗るうえでは無意味で、
誰でも自然に乗れるようになるというのが、誰もが思うことではないだろうか。
しかし、発声練習と自転車乗り練習で、大きく異なる点が一つあると思う。
発声においては、上手く出来たか、それとも失敗だったのかを、
自身では簡単に判断できないという点だ。
そのために、指導者はチェック方法として、眉間が振動しているかとか、
喉仏が下がっているかとか、声が背中を通っている気がするかとか、
自分自身で実感できるやり方を教えているのではないだろうか。
発声における指導とは、自転車の指導と同じで、
直接的なものではないと思う。
それを習う側が、理解していることが重要だと思う。