習い方あるいは教え方
書いていて思うのだが、発声の習い方は、発声の教え方でもあるということ。
それは、習うことと教えることが同じことを意味することでもある。
「習う」とは、自分自身に「教える」ことではないだろうか。
ならば、誰かに教えて貰おうといういう気持ちがあると、習うことはできないことになる。
「自分に教える」それが「習う」の姿ではないだろうか。
「発声の習い方、あるいは教え方」というブログタイトルの方がいいのかも。
「教える」とは何か。
以前、先生がこんなことを言っていた。
「指導とは、指でその人の道を指し示すことです。
やるのはあなた自身ですから、それ以上私には何もできません」
つまり、他人が教える事ができるのは、その人の方向性のみであって、
具体的な動作は一切教えることができないと言うことになる。
その、教えるという限界を知り、それを越えて教えることができるのは、
自分自身だけということではないだろうか。
自分が、子どもや他人に対して何かを教えているときのことを思い出してみる。
それは、人に教えているようで、実は自分自身が一番納得しているところがあるのではないか。
人に教えているようで、自分に教えている。納得させている。
他人に教えるときが一番自分でも理解しやすい。
自分で一番理解しやすい時とは、他人に教えている時なのだろう。