体感覚よりも聴覚を

難しそうな資料をいろいろと並べてみたが、

単語は難しくても、言っていることはとても簡単なことだ。

ある意味、「声を後ろに回して」とか、「音を眉間に集めて」と言ったことの方が、

言っていることは簡単でも、複雑で難しいことを言っていると思う。

もし、「声を後ろに回して」と言われたら、どうすれば後ろに回るのだろうと考えることは、

無意味だと分かる。

それよりも、「声が後ろに回っていない」=「きれいな声ではない」=「まだまだ改善の余地あり」

と考えるしかないだろう。

声を後ろに回せば、声が後ろに回って聞こえるわけではないのだから。

そこに直接的な因果関係は無いことを知るだけで、気持ちもラクになる。

少なくともそのような注意を受けるということは、

自分の耳で、そういう音色の違いを聴き分ける感覚が育っていないということを示している。

たとえば、日本語には無い外国語の母音を聴き分ける能力が育っていないように。

声が後ろを回っていなくても、その声が良い声だと思ってしまう感覚がどこかにまだあるとしたら、

そこには気づかない。

だから、できる事、できない事の以前に、認識する力が必要になる。

 

練習を重ねていくと、次第に出来るようになった部分を無理に強調したくなるようだ。

そこで、また違う部分に力が入ってしまい、バランスを崩してしまっていることが気づけない。

言葉を真に受け過ぎることで、体感覚が重視されれば、聴覚がおろそかになる。

いつの間にか、濁った母音になっていることにも気づかない。

舌根が下がっていることを体感したくて、

無理やり舌根に力を入れて下げていることに気づかないこともある。

まず第1優先は、きれいな母音である。

軽くならず重くない声、押しつけない自由度のある声、篭らないクリアな声が求められるだろう。

しかし、これも一歩間違えてば、

重い声を芯がある声だと勘違いしたり、薄っぺらな声を柔らかい声と勘違いしたり、

篭った声を深みのある声と勘違いしたりすることがある。

体感覚だけに頼ってしまうとこのような、違いに気づくことができない。

そのためにも、聴覚が最優先されなければいけないと思う。