強く、柔らかく、美しく

「強く、柔らかく、きれいな声」と言うのは、私の思う発声の理想像なのだが、

「強く」とは、音量の大きさだけではなく、

芯のある、地声の混ざった、低音の響きがある意味である。

それには、息から声への変換効率が良くなければいけない。

そして、響きの箇所が多くなければいけない。

それは、声そのもの大きさというよりも、

歌声フォルマントが形成されているかどうかによる。

つまり、強く聞こえる声であるかどうかである。

 

「柔らかく」とは、声が自在にコントロールできる状態であること。

身体に無駄な力が加わった発声では、それはできない。

自然なビブラートが付けられること、強弱のコントロールが連続的にできること、

音程の変動が滑らかであることが求められる。

 

「きれいな声」とは、ノイズの少ない声。

そして、どの音域においても正しい母音が発声できること。

明るい音色、暗い音色、薄い音色、厚い音色、

これらを意図して使い分けることができる状態。

 

思いつくままに、理想的な声というものを書き並べてみたのだが、

理想を実現化するには、理想的な言葉を実現的な言葉に書き下す必要がある。

理想は、実現に可能なことの延長線上にあると思っている。

 

書き並べた理想的な声だが、これらを一つ一つすべてできるようにするということではない。

声は一つである。

一つの声を違った角度から表現すると、上のようになるだけで、

実態としての声は一つしかない。(ホーミーを除いて)

そういう視点でもう一度、「理想的な声」を読み直してみる。

ふと、頭に浮かんだのが、フィギュアスケート

氷の上で演技する選手の姿を、そのまま声帯が踊っているように想像してみる。

羽生でも、紀平でもいい。

彼らを声帯と思って、声帯がスピンの時には小さく縮み、

ジャンプのときに大きく伸び、優雅にダイナミックに自在に動き回っているとしたら。

そんなことが、喉の中で起きているとしたら。

 

3回転ジャンプを、4回転にしようとすれば、

それなりの地道な練習を積み重ねなければならないだろう。

ジャンプには、ジャンプに適した筋トレが必要だろうし、

スピンにはそれに適したストレッチが必要になるだろう。

それらの練習は、複雑多岐かもしれないが、演技は一つである。

「強いジャンプ、柔らかなスピン、きれいな姿勢」、

これらを備えていることが理想ではないだろうか。

そして、これらの三つは常に連動しているのだろう。

どれか一つが強調されることはあっても、どれか一つが失われることはないと思う。

 

今朝、テレビでテノール歌手のリサイタルを見た。

素人と違うのは、外見的に不自然な動きや、

力の入っているような動きがまったく見られないことだ。

たとえ高音になっても、音楽的な表情以外は全く顔が動かない。

フィギュアスケート4回転ジャンプでも、歯を食いしばって、

全身に力を入れている選手がいないのと同じだろう。

 

発声練習も、顔色一つ変えることなくできる状態をキープすることに専念し、

音程や音量、母音を変えながら少しづつ丁寧に拡張していくのが最短距離のように思う。