しゃぼん玉で練習

前回はハミング時の空間イメージについて書いたが、

それは自分の頭の中を納得させるためのことだったのかもしれない。

気道を広げるようにとか、鼻腔に息をたっぷり流すというように思えば、

なるほどそれは理にかなっていると判断でき、それを行うモチベーションは上がる。

つまり、頑張れる根拠が得られるからだと言うこともある。

逆を言えば、わたしたちは根拠や裏付けの無いことは信じていないと言えるかもしれない。

それは、ただ純粋に声を出すことを忘れているのではないだろうか?

 

もしかしたら、鼻腔に声を集めるとか、息を大量に流すというような

単純なこととは全く違った原理で、正しい発声はなされるのかもしれない。

ただ純粋に、声帯と声帯膜の複雑な動きだけによって、

柔軟で強い声が作られているのかもしれない。

その結果として、響いた声、息が流れているような声とわたしたちは判断して聞こえるのかもしれない。

そうだとすれば、あまり言葉のイメージに捉われ過ぎるのは危険だろう。

イメージを「きっかけ」として利用するのは良いかもしれないが、

それを本質だと思って、さらに誇張させてしまっては良くないのだろう。

その際大事なのは、ただ純粋に声を出すこと。

美しいと思った響き、無理なく声が出ているという感覚。

それを大切にしなければいけないと思う。

テクニックで発声を解決しようなどとは思ってはいけないのだろう。

 

しゃぼん玉の事を思い浮かべてみる。

子どもの頃、石鹸水で大きなしゃぼん玉を作ろうと思って苦心した。

大きくしようと無理すれば、必ず割れてしまう。

だから、一定の息の量でずーっと吐き続けなければいけない。

それも繊細に。

しゃぼん玉は使った息の量が目に見えるので、、まだ息のコントロールはしやすい。

しかし、声は目に見えないため、繊細なコントロールがしにくいはずだ。

前回はハミング時の空間イメージについて書いたが、

それは自分の頭の中を納得させるためのことだったのかもしれない。

気道を広げるようにとか、鼻腔に息をたっぷり流すというように思えば、

なるほどそれは理にかなっていると判断でき、それを行うモチベーションは上がる。

つまり、頑張れる根拠が得られるからだと言うこともある。

逆を言えば、わたしたちは根拠や裏付けの無いことは信じていないと言えるかもしれない。

それは、ただ純粋に声を出すことを忘れているのではないだろうか?

 

もしかしたら、鼻腔に声を集めるとか、息を大量に流すというような

単純なこととは全く違った原理で、正しい発声はなされるのかもしれない。

ただ純粋に、声帯と声帯膜の複雑な動きだけによって、

柔軟で強い声が作られているのかもしれない。

その結果として、響いた声、息が流れているような声とわたしたちは判断して聞こえるのかもしれない。

そうだとすれば、あまり言葉のイメージに捉われ過ぎるのは危険だろう。

イメージを「きっかけ」として利用するのは良いかもしれないが、

それを本質だと思って、さらに誇張させてしまっては良くないのだろう。

その際大事なのは、ただ純粋に声を出すこと。

美しいと思った響き、無理なく声が出ているという感覚。

それを大切にしなければいけないと思う。

テクニックで発声を解決しようなどとは思ってはいけないのだろう。

 

しゃぼん玉の事を思い浮かべてみる。

子どもの頃、石鹸水で大きなしゃぼん玉を作ろうと思って苦心した。

大きくしようと無理すれば、必ず割れてしまう。

だから、一定の息の量でずーっと吐き続けなければいけない。

それも繊細に。

しゃぼん玉は使った息の量が目に見えるので、、まだ息のコントロールはしやすい。

しかし、声は目に見えないため、繊細なコントロールがしにくいはずだ。

だから、そのぶん耳に集中しなければいけない。