1かゼロか

「喜びの中に悲しさがあり、悲しさの中にも喜びがある」

と前回書いたが、その「強度」という概念は、発声法にもつながるところがある。

ミックスボイスという発声法だ。

簡単に言えばファルセットと地声を混ぜた声なのだが、

ここで大事なのは、どんなに高い音域に入っても地声の成分をほんの少しでも残しておくこと。

また、どんな低い音域でも、ファルセットの成分が1%でも残っていることだと言う。

その1%を失ってしまうと、ミックスさせることはできない。

たとえ小さな芽でも、それを摘んでしまえば巨木は育たない。

 

1かゼロかという言い方がある。

この曲は悲しい曲で、あの曲は嬉しい曲だ。

地声かファルセットしか出ない発声法。

おそらく、芸術には1かゼロかというような発想はないだろう。

それなのにわたしたちの身体は、この「1かゼロか」という動きをしてしまうことがある。

反射系の動きである。

膝頭を叩けば足が跳ね上がるが、強く叩けば強く跳ねるものではない。

口に指を突っ込めば、喉がえずくが、少しだけ指を突っ込めば、少しだけえずくようなことはない。

きっと声帯も同じだろう。

恐怖を感じたりや緊張すると、瞬間的に声帯は閉じる。

これを回避しなければ正しい発声にはならない。

私は子どもの頃から喉が過敏であった。

そのため、大きな食べ物を飲み込むことが苦手で、薬の錠剤を半分に割って飲んだりしたものだった。

食べ物が喉に突っかかった経験がそうさせているのだと思う。

それがここ数年前から、錠剤を幾つかまとめて飲み込めるように変わった。

発声を訓練することで、喉が開くというイメージがつかめてからだったろう。

喉が開くとは、喉が閉まらないということだ。

当たり前のような話だが、喉を大きく開けることが目的なのではなくて、

喉を閉まらないように意識することが本質なのではないか。

もっと大きく開いてと言っても、限界があるし、どんなに頑張っても

大して開くものではないだろう。

でも閉じてしまった喉(声帯)は、開いた喉とは全く違うものになる。

それでも地声として声はそれなりに出るし、さらにきつく締めれば高い音も出て、

音量だってそれなりに大きくすることができる。

しかし、その発声法は間違っている。

それは、「1かゼロか」の声だからである。

決して美しい声にはならない。