喜びと悲しみと芸術と

ある指揮者のインタビューで、

「この曲には、喜びの中に悲しさがあり、悲しさの中にも喜びがある」

と語っていた。

私はそれが芸術の神髄だと思う。

今、歌っている「いっしょに」という曲も、歌詞の内容や旋律を見れば、

それが悲しみの中から生まれた曲だとすぐにわかる。

だからと言って、悲しい曲だから悲しく歌うというのは、芸術ではないような気がする。

芸術とはわからないものに踏み込むことことではないだろうか。

では、わからないものとは何だろう?

たとえば「悲しさ」ということすらわかっていない。

それは100%悲しいということが、存在しないからだろうと考える。

もし悲しみが100%であったとしたら、それ以外の感情が全く無かったとしたら、

そこから喜びに這い上がることはできない。

悲しい曲というのは、悲しみの割合が高い曲と考えるのが正しいのだろう。

悲しみの中にも、わずかな希望があるからこそ、その芽が開き、

いつかは喜びに転じることもある。

そう言えば、哲学者のスピノザも同様なことを書いていたらしい。

 

「愛は花、君はその種子」は、まさしくそのことを歌っている曲だ。

人は、悲しみの中にも美しさを見出す。

もちろん、喜びの中にも美しさを見出す。

美しさは、喜びや悲しみという言葉から超越したところにあるのだろう。

これが芸術の領域なのだと思う。

先ほど書いた指揮者の振る「ローエングリン前奏曲」は、極めて美しい。

なぜこれほど美しいのか。

それは、喜びと悲しみが半々になっているからだと思う。

つまり、この前奏曲は、悲しいのか、喜ばしいのかわからない。

わからないから、美しい。

それが芸術だという答えになるのだろう。

 

ある指揮者のインタビューで、

「この曲には、喜びの中に悲しさがあり、悲しさの中にも喜びがある」

と語っていた。

私はそれが芸術の神髄だと思う。

今、歌っている「いっしょに」という曲も、歌詞の内容や旋律を見れば、

それが悲しみの中から生まれた曲だとすぐにわかる。

だからと言って、悲しい曲だから悲しく歌うというのは、芸術ではないような気がする。

芸術とはわからないものに踏み込むことことではないだろうか。

では、わからないものとは何だろう?

たとえば「悲しさ」ということすらわかっていない。

それは100%悲しいということが、存在しないからだろうと考える。

もし悲しみが100%であったとしたら、それ以外の感情が全く無かったとしたら、

そこから喜びに這い上がることはできない。

悲しい曲というのは、悲しみの割合が高い曲と考えるのが正しいのだろう。

悲しみの中にも、わずかな希望があるからこそ、その芽が開き、

いつかは喜びに転じることもある。

そう言えば、哲学者のスピノザも同様なことを書いていたらしい。

 

「愛は花、君はその種子」は、まさしくそのことを歌っている曲だ。

人は、悲しみの中にも美しさを見出す。

もちろん、喜びの中にも美しさを見出す。

美しさは、喜びや悲しみという言葉から超越したところにあるのだろう。

これが芸術の領域なのだと思う。

先ほど書いた指揮者の振る「ローエングリン前奏曲」は、極めて美しい。

なぜこれほど美しいのか。

それは、喜びと悲しみが半々になっているからだと思う。

つまり、この前奏曲は、悲しいのか、喜ばしいのかわからない。

わからないから、美しい。

それが芸術だという答えになるのだろう。