共鳴ではない

「鼻腔共鳴は存在しない」という話を、前回は書いた。

それが本当だとすると、それは衝撃的な事実である。

別に、指導者が間違ったことを言っているというつもりはない。

そういうイメージを持つことが、効果的であることは変わりない。

ならば、「鼻腔に響かせる」という表現は、あくまでも「鼻腔に響いているような声を作る」

と言うことを忘れてはいけない。

 

「共鳴」という言葉の意味について調べてみた。

それは私たちがイメージしていることとはちょっと違っていた。

「共鳴」という言葉のイメージは、

「空洞に音が響いて、音が大きく増幅された現象」と答える人が多いと思う。

しかし、厳密に言えば、それは音の反射である。

口腔や咽頭腔を空間的に広げることで、音響的に音は増幅されたりはしない。

このことから、「空間を広げるような」イメージを持たなくても、

どんなイメージであってもよいことになる。

例えば「空間を狭める」というイメージでもかまわない。

トイレとか風呂場とか狭い空間では声が大きく聞こえるというイメージを持っている人には、

それでも同じことが言えるのではないか。

 

人間の身体が持つ響きとは、音色を決定するだけであり、音量にはさほど影響しない。

音量を決めているのは、声帯の振動(喉頭音源)でしかないと考えた方が正しいだろう。

しかし、喉頭音源の音量を増やすことだって、ただ単純に息の量を増やせばいいというわけにはいかない。

息の量が増えれば声帯は閉じてしまい、息の流れは悪くなる。

声帯の閉鎖と息の量のバランスが、音量を決める。

声帯を越した後の息は、音響学的にはなんの意味もない。

そこから先は、空気振動であり、息は無くても、たとえ無風でも音は伝わる。

つまり、「声を息に乗せて」というのは、「息を効率良く声に変換しなさい」ということである。

「ろうそくの炎が揺れないような歌い方」とはその極地である。