耳を塞いで声を聴く

昨日のラジオ番組で、マインドフルネスの紹介をしていた。

その簡単なやり方として、呼吸法というものがある。

無という瞑想状態になることは難しいので、

とりあえず一つのことに集中することで、

それに近い状態になるのだという。

呼吸をするときに、自分自身を観察する。

鼻の中を通り抜ける空気の感触であったり、

息を吸い込んだ時の、胸やお腹の広がり具合を確認するということだけで、

瞑想の効果はあるらしい。

以前の記事でも、マインドフルネスのことを書いたことがあるが、

この呼吸法というのは、発声トレーニングの指導とそっくりである。

もしかしたら、発声そのものがマインドフルネスの効果ではないかと考えてしまう。

開放された声、柔らかく自由な声というものは、

筋肉に微小な緊張が起きるだけで委縮してしまう。

発声筋が自由に自動的に働けるように、

いかにその他の随意筋が邪魔しないかではないかと思う。

 

ここしばらくは、「聴く」ということについて書いている。

では、もし聴かなかったらどうなるのだろうかと実験してみた。

両耳を指で塞いだ状態で声を出してみる。

さぞや聴きづらくなるだろうと想定していたが、実際は逆だった。

耳を塞ぐと自分の声が大きく聞こえる。

それは周囲の雑音がシャットアウトされるために、

自分の声に集中できるからだろうと思う。

今度は逆に、耳を塞いで声を出した状態から、

指を耳から離してみた。

すると、音は塞いでいた時よりも、さらに大きな音に聴こえた。

やはり、マスキング効果が働いていたのだろう。

 

耳を塞ぐことは、物理的にマインドフルネス環境を作っていたことになるのかもしれない。

いずれにしても、人間の耳の感度は意識と連動していることがよくわかった。

だから、なるべく高い意識を持って、自分の声を聴くことが大切なのだと思う。

我慢する筋肉

高音で声が出なくなる時、「もっと喉を楽にして」と言われる。

そんな時に思うのが、「楽に高音がでるわけがない」である。

高音を出すには、「呼気の速度を上げ、喉頭を下げて、

声帯をしっかりと引っ張らなければならない」と思っているからだ。

だから、高音が苦しいのは、まだ筋肉の使い方が足りない、

筋力不足だからもっと鍛えなければと考えてしまう。

それは、言われていることと矛盾してしまう。

 

もしかしたら、高音を出すのに必要な筋肉とは、

自分で思っているほど

高音で声が出なくなる時、「もっと喉を楽にして」と言われる。

そんな時に思うのが、「楽に高音がでるわけがない」である。

高音を出すには、「呼気の速度を上げ、喉頭を下げて、

声帯をしっかりと引っ張らなければならない」と思っているからだ。

だから、高音が苦しいのは、まだ筋肉の使い方が足りない、

筋力不足だからもっと鍛えなければと考えてしまう。

それは、言われていることと矛盾してしまう。

 

もしかしたら、高音を出すのに必要な筋肉とは、

自分で思っているほど実感できるものではないのかもしれない。

音が上がるにつれて、徐々に力を入れていこうと努力することが、

間違っているのかもしれない。

これまでは、音階を上げるときに補助イメージとして、

手の動きを加えてやっていた。

確かに、その効果はあったと思う。

しかし、それでは限界点にくればそれ以上のことはできない。

 

今度は、そのような補助イメージを一切持たずにやってみる。

とにかく、音が上がろうとも何も変えない、どこも動かさない。

筋肉とかの動きも考えず、最初の喉の状態を最後までそのまま保つことだけに専念してみる。

結果、苦しくなるとどこか必ず動いてしまう。

逃げてしまうのだろう。

そこを動かずにキープし続ける筋肉こそ、求められいる筋肉ではないだろうか。

我慢する筋肉。

だから、その筋肉に力を入れている実感は無い。

それが、「もっと楽にして」の意味だと思う。

力を入れれば、最後の一押しにはなる。

でもそれでおしまい。それ以上にはいかない。

 

力を抜いてとか、緩めてという表現は、

力が入ってしまっている状態だから言われるのだが、

もうその時には手遅れだと思う。

その状態からは力を抜くことは難しい。

実感できるものではないのかもしれない。

音が上がるにつれて、徐々に力を入れていこうと努力することが、

間違っているのかもしれない。

これまでは、音階を上げるときに補助イメージとして、

手の動きを加えてやっていた。

確かに、その効果はあったと思う。

しかし、それでは限界点にくればそれ以上のことはできない。

 

今度は、そのような補助イメージを一切持たずにやってみる。

とにかく、音が上がろうとも何も変えない、どこも動かさない。

筋肉とかの動きも考えず、最初の喉の状態を最後までそのまま保つことだけに専念してみる。

結果、苦しくなるとどこか必ず動いてしまう。

逃げてしまうのだろう。

そこを動かずにキープし続ける筋肉こそ、求められいる筋肉ではないだろうか。

我慢する筋肉。

だから、その筋肉に力を入れている実感は無い。

それが、「もっと楽にして」の意味だと思う。

力を入れれば、最後の一押しにはなる。

でもそれでおしまい。それ以上にはいかない。

 

力を抜いてとか、緩めてという表現は、

力が入ってしまっている状態だから言われるのだが、

もうその時には手遅れだと思う。

その状態からは力を抜くことは難しい。

自分の声を聴く努力

前記事の最後に、「自分の声」を聴くということを書いた。

それは、これまで自分の声が正しく聴けていなかったことでもある。

正しい声の聴き方とは、自分の内部の骨伝導を無視して、

耳の鼓膜だけで聴くことだと思う。

骨伝導を含めた声の方がより良く聞こえるけれども、

あえてそれにマスキングをかけて、客観的な空気の振動だけを、

空間の中から広い出して聴くことだと思う。

 

発声とは、声帯や共鳴腔だけで成り立っているものではない。

耳からのフィードバックとループさせながら調音を行っている。

つまり耳も、発声システムの一部だと言えるだろう。

たとえば音程がフラット傾向にある人は、

自分の声が客観的に聴けていない可能性がある。

もっと、空間の音を聴くことに注意を払うべきだろう。

自分の声を録音した音が、違和感なく聴こえるくらいに、

普段から、自分の声を正しく聴く意識を持つことだろう。

 

たとえば、練習の時に、先生が見本で出した声の後に続いて声を出す場合、

当然、先生の声を真似ているわけだから、似た声が出ているはずだろう。

その時は、似た声を出せていると思って満足していても、

後で家に帰って録音を聴いてみると、

先生の声はいつもと同じなのに、自分の声だけが違って聞こえる。

他の人の声も、いつもと変わらない。

自分の声だけが、自分で思っている声と違っている。

そして、それは悪い方向に違っている。

決して、録音の方が良い声に聞こえることはない。

声を出すことばかりに一生懸命になり過ぎて、

客観的に聴こうとする努力を忘れているのだと思う。

倉庫の発声2

前記事の続きだが、自分はリップロールが得意であるため、

唇周辺の脱力は以前からできている方だと思っていた。

しかし、今回、本当の脱力を経験したことによって、

他のまだ脱力しきれていない部分も分かるようになったと思う。

今までの脱力は、無理やり力を入れていないという程度の脱力であったのかもしれない。

 

そもそも、なぜ唇の周りに不要な力が入っていたのか、

その理由を考えてみる。

自分の頭の中では、

「口腔は大きく開けても、唇は大きく開け過ぎてはいけない」

「唇の形は、丸く、やや縦長の形状に開ける」

「すこし、ラッパ状に突き出すように広げる」

という意識があった。

そのように教わったのだけれど、

実際そのようにしてみると、どうしても唇に力が入ってしまう。

つまり、過剰にやっていたのだろう。

そのせいか、下顎の方まで固くなっていたと思われる。

もっと軽く、ふわっとやるべきだったのだろう。

 

唇の脱力以外にも、もう一つ実感できたことがあった。

軟口蓋の後部に、鼻の穴くらいの大きさの道ができ、

そこから息が抜けていく感覚が得られた。

よく言われるところの、

「眉間に声を集めなさい。細い穴に息を通すように」

 

「声を頭のてっぺんに当てる」という、初心者向けの表現がある。

頭のてっぺんというのは大げさだが、

方向的には軟口蓋に向かってということなのだろう。

そして、軟口蓋から鼻腔、眉間にかけて声が当たるような感覚は、

以前から持てていたと思う。

「声が、息が当たる」という表現はまったくその通りで、

直径3cmほどの丸い面に当たっているような感覚であった。

しかし、今回は「面に当たる」という感覚ではなく、

ストローの穴程度の中を、息が漏れていくような感覚であった。

そして、その穴を通すことで楽に声が放射されていく。

 

結果として、どうしたらそのように出来るのかという答は無いだろう。

出来なければ得られないし、出来れば得られる。

この二つしかないように思う。

徐々に出来ていくようなものではないかもしれない。

今回できた理由は、はっきりしている。

これまでにないリラックスした精神状態になれたこと。

音場という空間と、「自分の声」というものに集中できたこと。

おそらく多くの人が「自分の声」を聴くことに対して、

抵抗があるのではないだろうか?

骨伝導を通さない自分の声は、どこか違和感がある。

倉庫で発声

倉庫のように天井が高く広い空間があったので、

そこで声を出してみた。

近隣には人の気配も無く、大きな声を出しても誰に聞かれる心配もない。

そういう空間だと、声が壁から跳ね返ってくるのに時差があるのか、

自分の声がいつも以上にしっかりと聴き取ることができた。

逆に、普段は全然自分の声を聴けていないのだと実感する。

歌ではなく、声そのものだけを聴くということは、

どこか瞑想的な感覚が得られるようだ。

徐々に自分の声に聴き入ると、自分が声を出している側なのか、

聞いている側なのかが区別できなくなる。

一体何を聴いているのだろう?

通常、音とは聞かされるものである。

しかし、自分の声を聴く場合は、

まるでウロボロスの蛇のようにループを描く。

空間と声が一体となったとき、

つまり、ほとんど声を出している感覚が無くなるほど、

声帯効率が良い時は、そんなふうに感じる。

すると、心にも身体にもゆとりが生まれてくる。

そして、自分の無意識の癖にはっきりと気づくようになる。

私の場合は、唇の周囲に力が入っていたことを、この時初めて気づいた。

唇の周りをダラーンとさせてみる。

「ああ、これが脱力状態なのか」と感じた。

脱力状態は、どこか心許ない状態であり、

それを維持することは難しいと思った。

どこかに力を入れるとその脱力状態が維持できた。

それはお腹と腰だった。

顔から遠い場所に意識を向けることで、力が抜ける。

おそらくこの精神状態で日々練習していれば、

すぐに発声は上達するだろうと感じる。

身体のいろんな部分の感覚が敏感になっている。

こう言うのを、集中力が高いと言うべきなのか、

心がリラックスしていると言うべきなのか、わからない。

息は流さない

発声について、長い間ずっと思っていた疑問がある。

いくら調べても、ここに触れているものに出会わないのも謎である。

考えてみて分かるものではないがで、結論が出るかどうかは別として、

頭の中を整理してみる。

 

それは、息を吐く時のお腹の動き。

以前、ベリーイン、ベリーアウトのことを書いたが、

ここでは基本的にベリーアウトで考える。

そもそも、このように二つの異なったアプローチがあることも謎の一つだ。

基本的な発声指導法では、まず腹式呼吸を使ってたっぷりと息を肺に貯め込ませる。

そして、そのお腹が萎まないように声を出すと指導される。

それは、いっきに横隔膜が戻るのことを防ぐためだと言われている。

長いフレーズを歌う時や、息の量を自在にコントロールするには、

肋骨の力ではなく横隔膜のコントロールによって息を出さなければならない。

確かに、お腹を張ったまま歌うと、コントロールもしやすいし、声も深くなる、高い音も出る。

 

しかし、疑問は残る。

横隔膜を下げながら歌うとは、息をあまり使わないで発声しろということになってしまう。

「息をたっぷり流して歌いましょう」と言われれば、誰もが納得できる。

しかし、横隔膜を戻さないように歌えというのは、

息を流すなと言うことで、納得はし難い。

 

おそらく、「息を流す」=「息が漏れる」ではないだろう。

息が流れるのではなく、声が流れると言った方が正確ではないのか。

つまり、息は流さない。

呼気量が問題ではないのだと考える。

必要なのは、呼気圧。圧力は流量が少ないほど高くなる。

呼気圧が高まることで、声帯間の呼気スピードは上がる。

 

「息が流れる=声が流れる」とは、声質に関わる問題ではないのか。

柔らかい声、自由な開放された声、喉が閉まっていない声、声帯が閉じて息が詰まっていない声。

これら音色に関わることだと思う。

だとすると、横隔膜とは関係の無い話となる。

それなのに、声を出すとき「お腹に力を入れて」とか、「丹田を意識して」というように

お腹(横隔膜)を指示するのだろう?

考えられるのは、喉の筋肉と腹筋が間接的に繋がっていること。

声帯を下に引っ張る時に、腹筋が関連していること。

つまり、喉の力を取るため、必要な発声筋に力を入れるための指示ではないのか。

それなのに、そこが息の流れの話で説明されている。

 

声を出すときには、息の具合などあまり考える必要はないのではないだろうか。

横隔膜の動きは、「いかにたくさんの息を貯められるか」「いかに息を少しづつ吐けるか」、

この2点にしか関与していないはずである。

声を出すときに、「下腹部に力をいれる」「背中を広げる」「腰を張る」のは、

喉周辺の発声筋をサポート(緊張と脱力)するためではないのか。

 

強い声、高い声を出すには腹圧が重要だと言われる。

これは、声門下圧(声帯から下の空気圧)を上昇させることを意味しているのだろう。

それには横隔膜が上げる必要がある。

しかし、横隔膜は弛緩したときに上がるので、腹圧を掛けるとは、

腹筋群を使って内臓を押し上げ、横隔膜を上げるサポートをする。

その時に適度に声帯が閉まっていれば、声門を通過する呼気のスピードは上がる。

つまり、腹圧(腹筋群)と声帯の閉鎖具合で、効率的に声が流れるようにしているのだろう。

 

積み上げ方式

発声レッスン中に、ああして、こうしてと指導されたとしても、

すぐにその場で対応できるとはかぎらない。

もし、仮にできたとしても、それは偶然であって、

別な個所を指示された瞬間、元に戻ってしまうだろう。

発声練習には、積み上げ方式が必要ではないかと考える。

 

たとえば、声を頭頂部に当てる意識を持ったとする。

すると指導者はこう言うだろう。

「上には当たっているから、それをもっと後頭部の方向へ回して」と。

すると、声を深くした瞬間に、頭頂部への明るい響きは失われてしまうだろう。

指導者は、こう言う。

「上の響きを残したままで、声を後ろに回して」と。

結果として、ベクトル合成のように斜め上後方に意識を持っていく。

指導者は、

「そのままで、もっと息をたっぷり流して」と言うだろう。

なぜなら、音量が弱くなっているからだ。

指導者が求めていることは、「足し算」。

頭頂部に10の響きがあるのなら、さらに後頭部に10の響きを足せば、

合計の響き量は20になるはずだと。

たとえ音色は良くなったとしても、響きの量が10のままでは意味はない。

だから積み上げる練習を、後で自主練する必要があるだろう。

 

今、腹式呼吸の練習で私が意識していることとは、

バルーンアートで使われるような棒状の細長い風船を膨らませるイメージ。

風船が徐々に下に長く伸びていくあれ。

息を吸う時に、胴体(お腹)を下に長く押し伸ばす。

お腹で、骨盤を下に押し下げるイメージ。

いや、イメージではなく物理的に押し下げる動作をしている。

(結果として横にも広がっている)

そうやって、息をたっぷり下に貯め込む。

そして、吐く時は、鮫の連なったエラが一斉に横に開いて、

海水が吐き出されるように、息を吐く。

(結果として重心が下がり、腰に力が入る)

腰に力が入ると、腰回りが太く重く感じて安定感が出る。

その低重心の安定感が、支えとなって胸や、喉の力が抜けるように感じる。

そして、太くなった気道を、大量の息が通っているように感じる。

実際には、声帯に効率の良い呼気圧が当たっているという現象だけかもしれない。

それが、感じ方として、「息が流れている」とか、「喉が開いている」、「支えがある」

と表現されているのだろう。

感じ方は、人それぞれ違うと思った方がいい。

感じる(イメージする)ことと、動作としてやることはしっかり分別する。

それが積み上げ方式を可能にするだろう。

 

ここまでの動作は、声を出さないでやってみる。

過程を意識するだけで、声には出さず、ブレスだけでイメージトレーニングをする。

それができたら、息を吸うときに、舌根を下げてみる。

そして、下がったままの舌根の位置で、息を吐く。

さらに、斜め上後方への息の広がりをイメージしてみる。

(実際には、首を伸ばして、軟口蓋を上げる)

この一連の動作を、何度も繰り返し、身体に覚え込ませる。

野球や剣道の「素振り」のように。

声を出すのはずっと先だと思う。

今は、自分の声を聴いても仕方がない。

余計に、迷うだけだろう。

それよりも、しっかりと動作と手順を覚えることが先だと考える。

自分の声だけを聴いて、自然にそれができるようになる日を楽しみにしながら。