スライド式空気窓

これまで、こんなイメージを持って発声練習したら上手くいった。

こんな、動きを付けたら高い声が出たということをしてきた。

しかし、もうこれで次回からは万全と思いきや、

一週間後に突然上手くできなくなるときが多々ある。

むしろその繰り返しでこのブログも出来ているのだろう。

 

ちなみに昨日、考えた方法は、首の後ろ、あの映画「マトリックス」の

首に差し込むプラグの位置に、縦長の長方形の窓を開けるイメージである。

その窓は空気を逃がすための窓で、つまみが付いていてそこを持って下げると、

開口部が広がるという仕組み。

何が良かったかと言うと、今までは喉仏を下げるとか、お腹を下げるとか

「下に引っ張って押し下げる」というイメージを持っていたところを変えたこと。

「下げる」というイメージには筋肉の力で引っ張るという感覚があり、

どうしても力が入ってしまう。

その力が適当な部位だけに入ればいいのだけど、余計な部分にも力が入る可能性がある。

そこで、下げるとか広げるとか開けるという動作を、閉じている蓋をずらして、

開けるイメージにしてみたところ、何の力も使わずに声が抜ける感覚が得られた。

 

例えば、トロンボーンを吹くときのように、菅の長さを変えるのに力は要らないだろう。

菅の滑りが段々固くなるなんてことはないだろう。

どの音域においてもスムーズに菅は動くはずだ。

一度開いた空気窓は、手を離してもそのまま開いたままで、力を入れ続ける必要なんて無い。

どうやら、このイメージが良かったのか、非常に楽に声を出し続けることができた。

何だ、こんな簡単にできるのかと思ったほどである。

 

「良い声」はセンス

ここで書いている事とは、思い込みというものの排除なのかもしれない。

それほど発声には、難しい、一朝一夕にはできない特別な技術という刷り込みがあるように思う。

その刷り込みこそが、発声の上達を妨げているのではないかと思う。

人間が言葉を獲得する以前の原始の時代では、誰もが等しく、

今で言う素晴らしい発声能力というものを備えていたと聞く。

確かにその頃に比べると、現代の発声筋肉は退化しているかもしれない。

でも、そのプロセスについては脳の中にしっかり残っていると思う。

その埋もれたプロセスを思い出す作業が発声練習ではないか。

だから、新たに何かを学ぶという姿勢には間違いがあると思う。

発声の「やり方」に重要性を置いて拘るのではなく、

もっと柔軟に、自由に、どんなやり方をしても、

出来る時は出来ると考えることが必要ではないだろうか。

 

こうしてはいけない、このやり方では間違っていると思うことが不可能を生む。

喉が締めたければ、思いっきり締めてみればいい。

ただ、その締めた状態でも、「良い声を出す」ということだけは、

忘れてはいけないだろう。

そうすれば、締めたはずの喉も、良い声に近づけようとする動作のおかげで、

自然に開いてくるはずだ。それを喉が開いたと感じるか、

ただ良い声が出たと感じるかは、人それぞれである。

決して、精神論で発声を極めろと言っているわけではない。

むしろ脱精神論なのかもしれない。

 

ここで重要な位置を占めるようになった、「良い声」とは。

おそらく、「良い声」というものを知らないから、発声が上達しないのだと考えてみる。

それは、良い声といものを大雑把に捉えているということではないか。

もっと緻密な、「音の質」というものを意識する必要があるのではないか。

例えば、「音色」という言葉がある。

明るいだ、暗いだ、軽やかだ、重いだというような目に見えるような(本当は聴こえるような)感覚。

これは、誰でも、素人でもすぐに聴き当てられるものだろう。

ならば、「音色」ではなく、「音質」という言葉を使ってみる。

音色よりも、もっと定性的な耳。

それを言葉を使って表現することは極めて難しいが、

ある種のセンスと呼んでもいいだろう。

「センスがいい」と言われる、あのセンスである。

声が明るい暗いではなく、明るくても良い声であり、暗くても良い声であるところの、

「良い」を聴き分ける力であろう。

球状の声を目指す

前記事に書いたバーチャルサラウンドの話は、

声が後ろから聴こえてくるといっても、

それは必ずしも後に音源があるわけではないということ。

「声を自分の身体から離す」という言い方があるが、

素人は、声がその人の口から出ていることがすぐにわかるが、

プロの歌手は、声がどこから聴こえてくるのか分からない。

スマホでもそうだろう。

着信音をサラウンド効果にすると、

スマホとは離れたところから音が聞こえてくるような錯覚を起こす。

 

そう考えると発声練習でも、背中や首の後ろの筋肉を意識するのではなく、

背中を周ってくるような音色、周波数成分に意識を向けること、

つまり耳に意識を向ける練習が必要になるのではないだろうか。

マイクを使ったボーカル系の音楽をよく聴いている人は、

クラッシックのサラウンド的な音色には耳が慣れていないと思う。

本当に声楽の発声をしたい人は、単にマイク無しで大きな声が出るとか、

高音が力強く出せるというようなところにだけ注目せず、

マイクを使わない、アコースティックなサラウンド音というものに、

もっと注意を向けることが大事ではないか。

 

自分の声そのもの、音色だけに注目してみる。

声量とか、高音が出る出ないなど気にしない。

自分の声が、どんな形状をしているのか想像してみる。

理想的な声が、きれいな球体であるとすれば、

自分の喉から小さな真ん丸の球体が、

そのまま形を変えずに大きく広がっていくことを目標としている。

声の球体は音場であって、それに自分が包み込まれている。

自分は音場の中にいてそれをモニタしている。

そうやってモニタしてみると、とても理想的な球体になっているとは思えない。

表面がギザギザであったり、真球でなく歪んでいたり、

球が不安定で膨らんだり萎んだり揺らいでいたりするだろう。

それをバーチャルサラウンドの設計技師のように、

音場の形状を整えていく。

そのやり方?

そんなものは無いだろう。

ただ、真球に近くなるように声を出すだけだ。

そこに理論は無い。

試行錯誤、フィードバック手法がそこにあるだけだろう。

ゆっくり時間を掛ければ、必ず球体に近づいていくはずだ。

近づいた時には、必ずその時の感覚を覚えておく。

おそらくそれは、指導者から言われていることと一致しているはずである。

頭部伝達関数

声は流体ではないが、流体のように感じたいという人間の文化があるのだと思う。

声を流体のように聴かせることが、発声法の目指すところなのかもしれない。

流体のようなとは、「立体的な音+時間軸」が感じられる発声だと考えてみる。

立体的な音とは、サラウンド効果ではないだろうか。

音が前後左右上下から聞こえてくるような感覚。

 

人間の耳は、左右の耳でほんの僅かに異なる音の時間差や、大きさの違い、周波数特性などの情報を元にして、

音源の立体的な位置を把握することができる。

バーチャルサラウンドでは、二つのフロントスピーカや、ヘッドホンだけで、

それを実現させている。

 

発声練習では、声が後ろから聞こえてくるようにとか、

上から聞こえてくるようにと指導されることも多いだろう。

声が正面だけでなく、声が後ろからも上からも聴こえてきたとしたら、

それは立体感のある声だと言えるだろう。

 

ならば、人間は、前から聞こえてくる音と、

後ろから聞こえてくる音を、いったいどのようにして聴き分けているのだろうか。

調べてみると、バーチャルサラウンドの3つの条件とは、

両耳間における、「音量差」、「時間差」、「周波数特性の違い」と書かれている。

左右方向の聴き分けの仕組みは、簡単に理解できるだろう。

問題は、上下や前後方向の音源位置を、どのように聴き分けるのかということ。

これは、頭部伝達関数HRTF)というものが関係しているらしい。

人間は、耳や頭、肩の形状によって起きる音の反射の違いによって、

前から来る音と、後ろから来る音の違いを把握しているのだと言う。

その周波数特性を模擬することで、前から鳴るスピーカでも、

後ろから聴こえてくるようにすることができる。

 

前後・上下方向の音源の特定に関しては、4kHz以上の周波数領域が重要になってくるらしい。

その音域で見られる2箇所の音の減衰(谷)部分の存在が、位置を特定しているという。

以前、歌声フォルマントと呼ばれる2.5kHz3.5kHz倍音の重要性について書いたことがあるが、

4kHz以上の倍音がしっかり出ていることが、

上から・後ろから響くような声と関係あるのではないかと想像してしまう。

つまり、優れた歌手は、頭部伝達関数を模擬した周波数特性を倍音によって作り出し、

バーチャルサラウンドを実現しているのではないだろうか。

風のように 水のように

前記事で書いたように、

「直角に折れ曲がった菅」で、喉をイメージすることが身についてきた。

たとえば、自動車の運転中に道路を直角に曲がるとき、

コーナーの外側に膨れてしまうことがあるだろう。

そんなように、声というものが喉の気道を曲がる時、

気道内の外縁に沿って出ていくようにイメージできる。

それは、まるで声が軟口蓋に貼り付いているように感じられる。

そして、声が舌根(舌の奥という意味の)からの離隔が確保されている感じがする。

つまり、喉が開いた感じがする。

声は口腔内の天井に集まっているように感じ、

そのまま鼻の方に抜けていくように感じることができる。

これは、指導者が言うことと見事に一致する。

 

しかし、そのような感覚は、実際に起きている現象そのものではないと思う。

それでもそういう感じがするのは、多くの人に何かが共通しているからだろう。

それは、私たちが声というものを、

流体として捉えようとする傾向があるからではないかと思う。

流れを感じ、時間差、順序を感じ、方向性をあるものと捉えたくなる。

でも、実際に音という性質は、それとはまったく逆である波の現象である。

流体のように移動はせず、瞬時に360°方向に放射される。

それなのに、どうして流体のように感じてしまうのだろうか?

 

冷静に考えてみると、最初に書いたような声が集まるとか、

外縁に沿って流れるということは、起きるはずがないことだろう。

ありえるのは、声帯という1点から放射される空気の振動が、

気道内を複雑に反射しながら、音が打ち消し合ったり、

増幅したりするという、まさに波の性質そのものだ。

その性質を利用して、「声」というコントロールされた音ができ上る。

おそらく、この「コントロール」の目指しているところが、

「流体」にあるのではないだろうか。

 

風が吹き抜けるような声を、水の流れのような声を、

わたしたちは目指そうとしている。

その目標に達成した人だけが、声は流体のように感じられるのではないかと思う。

煙突ではなく、トンネルの喉

プロのテノール歌手の声を聴いて、あのような開放された高音を出したいと誰もが思う。

たしかに「開放された声」のように聴こえる。

発声レッスンでも、喉を開放するような指導がされる。

しかし、そこに落とし穴があるように感じる。

音が上がっていくにつれて、どんどん開放されいくように聴こえるのは、

そのように聴かせる歌い手のテクニックであって、

発声方法そのものが変わっていくわけではないと思われる。

プロが気持ち良さそうに歌っているのをそこだけ真似しても無駄だろう。

もし、「喉を開ける」ということでうまく効果が得られないと思う人は、

逆に喉を閉めてみたらいいかもしれない。

これは自分の感覚であるが、どうもそのように感じている。

 

例えば、口の中の空間を思いっきり広くしようとしてみる。

その時、口が大きく開くであろうか?

むしろ口はすぼませ気味に小さくして、

口の中の粘膜をめいっぱい延ばすようにするだろう。

その時、口という部分をどの辺りで意識するかによって感覚は人それぞれ違ってくる。

 

では、喉についてはどうだろう?

どのように意識しているのか?

私の場合、喉の形状とは、煙突のように真っ直ぐ上に伸びた菅であった。

それを広げたり、開放するとなると、菅の径を広げるようなイメージになる。

イメージとしては理解できるが、実際それで上手く結果は出せなかった。

そこで、逆に喉を閉じるつもりで高音を出してみた。

菅の径は横には広げない。そこはキープしたままにする。

すると今度は、縦に広がる感覚が得られた。

 

喉のイメージを変えてみる。

煙突のような真っ直ぐの菅ではなく、煙突の先がL字に曲がっている。

そして、菅の径を大きく広げるとは、その曲がったところ、

つまり水平になった部分の径が広がるのだと考える。

煙突の径でなく、トンネルの径が広がるというイメージだ。

よく指導者が、「喉を縦に開けて」ということだと思う。

この時の縦とは煙突を長く伸ばすのではない。

トンネルの高さを広げることになる。

指導者とシンクロする

「首の後ろ側を開いて」

このように、開く、開ける、広げろと言われたとしても、

本当に広げたりしてはいけない。

もし、素人がそうやろうとすれば、

ただ首の後ろの筋肉を固めてしまうだけになってしまうから。

だから、言葉の読み換えをする必要がある。

 

指導者は、生徒の首の中の覗いてそう言っているわけではない。

生徒の出す声の音を聴いて、そのように言っているだ。

だから、「首の後ろが閉まっているようなな声に聞こえる」と言うのが正しいだろう。

その言葉の表現は、指導者自身が良い声を出せている時に感じている感覚が、

「首の後ろが開いている」に相当するのだろう。

つまり、指導者は耳から聞こえてくる音色を、自分自身の感覚に置き換えて表現している。

そして、指導者自身の感覚と同じにように感じれば、良い声が出ると信じて指導する。

可逆的なものであるならば。

 

先生が見本で出す声を、真似るのはよくないと書いたことがある。

口先だけの声色を真似てしまうからだ。

それは単なるモノマネであり、

正しく使われるべきインナーマッスルが使われていないおそれがある。

しかし、声真似ではなく、その人物全体になりきるというのが効果的に感じた。

芝居の役者が、その役にはまり込む時のように、自分が捨て去れること。

例えば、先生の声を真似る時に、そのフレーズだけではなくその前の、

説明部分の時から、感情移入してなりきる。

つまり、自分が他人に教えるというところからその人になりきる。

生徒と先生の立場の関係があっては、先生になりきることはできないだろう。

自分も先生に見本を見せるくらいの感じを持ったとき、

感覚が共有されるのではないだろうか。

 

そういう心理状態で、音を真似る(声ではなく)。

身体、耳まで真似る。

もし、許されるのなら、先生が見本で声を出している時に、

一緒になって声を出させてもらうのはどうだろう。

見本の声は、黙ってちゃんと聞くものという道徳を崩してでも、

先生の声と、自分をシンクロさせてみるのは効果があるかもしれない。